旧湯川研究室有志からの訴え

3 5月

 

 

「原発の再稼働」をめぐって各界に訴える

京都大学旧湯川研究室同窓会有志  2012年4月27日

 

前文

      

2007年以降、恒例となっている私どもの標記同窓会が昨年度開かれた

のは、たまたま東日本大震災から11日後の3月22日でした。海外から

の参加者をふくめ、当然のことながら出席者の多くから震災、とくに原発

事故についての発言が相次ぎました。“湯川先生が生きておられたら、い

まどう発言なさるでしょうか”との嘗ての女性秘書のことばが強く印象に

残っています。そして本年3月22日の会合では、一年を経過しても一向

に展望の見えない日本の現状に対して、会の終わりに近く、“湯川先生の

中間子論はもとより、原子力とは根本において深く関わりのある筈のわれ

われ同窓会メンバーは高齢とはいえ、何もしないで済むのか、社会的責任

はないのか”といった厳しい発言を見るにいたりました。

 

その中で湯川秀樹博士(1907-81)が、1956年1月に初代原子力委員に

就任、そして翌年3月には早くも辞任にいたる経緯について、元同窓会メ

ンバー(物故者)であり、当時原子力委員会特別委員として終始、湯川博

士を補佐した故井上健氏(1921-2004)がつづる貴重な論考「旅路」(日本

放送出版協会、1984、『湯川秀樹』所収)の存在とその叙述の一部が

出席者から紹介されました。

 

“先生がわが国最初の原子力委員に就任されたのは昭和三十一年の正月でした。・・・

委員長に予定されている正力松太郎氏から就任要請があったことは聞いていたものの、

よもや先生が受諾されるとは私には思われなかった。・・・先生をリーダーとする素

粒子論グループの内部でも先生の委員就任に対して批判的な空気が強かった。・・・

基礎物理学研究所のスタッフに対して、就任について了解を求められた席上でも、先

生が現実の泥にまみれることを心配する声が多かったが、それに対して「科学者の社

会的責任から」との先生の決意は翻ることはなかった。・・・読売新聞の社主でもあ

る正力委員長からは、冒頭の顔合わせの雑談の際にテレビやプロ野球を企業として成

功させた体験を踏まえて、原子力産業も・・・経済成長の重要な一翼を担うというメ

リットがあるとのご託宣があった。・・・経済部会の席上で電力開発の松根理事が・

・・一九六〇年に原子力発電が全発電量の二〇パーセント程度にならなければ日本列

島全体が暗闇になるかのような議論を展開された。・・・ ”

 

湯川博士自身による、辞任前後の貴重な論考として、「日本の原子力 

―急がばまわれ」、「「むだ」ということ」(ともに「基礎研究」の重要

性を力説)、「科学と人間性」(湯川著作集5、岩波書店)などが残され

ていますが、その背景を語るもう一つの貴重な証言があります。

 

2008年10月12日、最初にして最後の湯川研究室同窓会出席となっ

た故森一久氏(1926-2010、元原子力産業会議副会長、2004退任、UCN

会創設)のその際の発言です。森氏は敗戦の前年(1944)9月、京大物理

に入学、翌年の夏、帰郷中の広島で被爆、両親を含む五人の親族を原爆で

失っています。在学中は湯川博士の指導を受け、当初中央公論社に勤務、

雑誌『自然』の編集にたずさわりながら、日本学術会議の原子力三原則

(自主・民主・公開)を支持する全国の若手研究者とともに「原子力コロ

キウム」を立ち上げます。湯川博士に原子力委員就任を強く働きかけ、結

局短期辞任にいたった様子を、概略以下のように語りました。

 

“1956年1月4日昼下がり湯川博士から電話がはいつた。「森さん、君に言

われて委員になったけど、もうやってられないよ・・・正力氏が「研究などしな

くても外国から炉を導入すればいい」と言っている。そんなことでは委員になっ

た意味がない」と博士は不満をぶつけた。四谷の旅館にかけつけ「先生、発足早

々に委員長が気に入らないからと辞めるなんて、・・・そういう問題(政治家の

独走)があるから、委員が必要なんですよ」 博士の心は何とか収まり、・・・。

それでも翌57年3月、結局神経性の胃腸障害で静かに辞任した。”(2007 1-24

 毎日新聞(夕刊)インタービュー記事参照)

 

当日の同氏の発言は、自らの被爆体験を乗り越えて原子力の平和利用に懸

けた青春の夢が打ちくだかれた無念さと、結果として自らもその渦中に身

を置いた「原子力ムラ」の退廃を止められなかったことに対する忸怩たる

思いを、青春をともにした同窓生にひそかに訴えるかのようでした。今に

して思えば、この点において同じく無力であったわれわれ自身、同氏と思

いを共有し、より深く語り合えたと思うのですが、その機会はなくなりま

した。晩年は 日本の原子力政策を正すべく若手研究者を組織しようとの

夢を抱きつつ、残念ながら思い半ばに急逝されました。

 

 

      訴え

 

福島原発事故からこの一年、故郷を追われ、想像を絶する苦難の日々を送

る被災者、その一方で「原子力ムラ」の実態が日々、白日のもとに曝され

ています。宿命的な業官の癒着はもとより、その原子力ムラの中枢にあっ

て、科学者の名において、原発の安全神話の形成に免罪符を与えてきた一

部の学者・専門家の存在とその行動が、世論の酷しい批判を浴びています。

 

加えて地震列島日本の危うさが改めて報ぜられる最中、これまでの原発政

策についての根本的見直しもせず、「原子力ムラ」の政官業学の構造はそ

のままに、停止中の原発の再稼働に向けて走り出した政府の昨今の「暴走」

には、怒りを超えて新たな危機感を覚えます。事故発生直後から、今日に

至るこの一年有余の深刻な経験からの教訓は一体何であったのか。

 

すでに多くの識者が指摘するように、これ以上に半永久的な国土の、そし

て世界の放射能汚染という最悪の遺産を未来世代に残さないためにも、

「脱原発」への決断は、わが国にとって不可避、緊急の課題となっている

と言わざるを得ません。政権はまずもってこのことを銘記すべきです。

「脱原発」に伴う困苦が生じても、国民はきっとそれを乗り超えるであろ

うことを信じています。

 

一 原子力関連の学界、研究者のみなさん 

いま地震列島日本のすべての原発が停止に入ろうとしています。いまこ

そ敗戦直後の廃墟から立ち上がったわれわれの先輩たちの気概に学び、

日本が原子力といかに向き合うべきか、初心に立ち返って考える最後の

機会となっています。

嘗てない大きな世論の昂まりを背景に、原発依存から脱却する決断を

政界、業界に求めるまたとない機会であり、みなさんの勇気ある発言が

期待されています。そして放射能の危険から日本を、世界を救う長期に

わたる困難な課題、それに応えうる有為の後継者育成の課題が託されて

います。この課題は核兵器の廃絶の課題とともに、20世紀の現代科学

がもたらした「原子力と人類」という人類史的課題です。 われわれの

先輩たちの願いをみなさんが引き継いでくださることを切に訴えます。

 

二 学生のみなさん

われわれは原子力自身を敵視しているわけでは全くありません。 “私

は原子力を知ったこと、さらにそれが危険であることを本当に認識する

ことが、却って人類の前により良い世界を拓く鍵となることを信じてい

 ”は、敗戦直後の湯川博士のことばです(「科学の進歩と人類の進

化」1947)。原子力は太陽や夜空に輝く無数の恒星のエネルギーの源泉

です。むしろ人類が到達した今日の科学の世界に、現実の人間社会が進

化・適応できないことこそが問題です。「原子力ムラ」の形成はその典

型的事例です。敗戦時にも匹敵するこの激動の時代にあって、 “科学

とは、技術とは、そして学問とは何か” を学び、考える絶好の機会で

す。湯川博士の謦咳に接したわれわれ同窓会有志は、みなさんの奮起を

期待します。

 

   (参考文献) 

湯川秀樹著作集5(岩波)、井上健「旅路」(上記)、「森一久オー

ラルヒストリー」(近代日本史料研究会2008・1)、『世界』

(岩波2012、1月号ほか)、山崎正勝『日本の核開発 :1939

~1955原爆から原子力へ』( 績文堂2011・12)

 

         呼びかけ人

徳岡善助、亘和太郎、山崎和夫、上田顕、田中正、井本三夫、菅野禮司、

中沢嘉三

この訴えの連絡先;

菅野礼司 rsugano@feel.ocn.ne.jp

中沢嘉 kaon_naka@kyoto.zaq.ne.jp

 

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