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雑誌「現代思想」で量子計算を哲学してみる

28 1月

私は、D.ドイチがその概念を発表して10年後の1995年に量子計算の分野に参入した。P.ショアが素因数分解の量子アルゴリズムを発表して間もなくのことである。その頃、日本で量子情報/計算の第一次ブームが起きた。

 この数年の出来事は第二次ブームというべきで、メンバーも相当入れ替わっている。メディアでも盛んに報じられ、一般の人の間にも関心が高まり、「Googleが何かすごいことをやったらしい」とか、「巨額の国家予算が投じられているそうだ」「仮想通貨は危ない」などと、日常の話題にしている。

 しかし、分かって話をしているわけでもないらしい。そこで、本稿では2節から7節まで、量子計算の簡単な解説をする。一方、専門家は研究のターゲットを絞り込んで先陣競争をしがちである。

こういう時期には、量子計算全体を俯瞰して、それぞれの専門性という縦糸に横串を入れるという意味の「哲学」の意義が出てくる、と考えて第8節をしたためる。2節から7節までをわかっている人は、8節だけを批判的に読んでいただければ、幸いである。

国民一人当たりのコーヒーの消費量

13 12月

グラフを見るとルクセンブルグがダントツに一位です。

https://gigazine.net/news/20120726-coffee-consumption/

でも、不思議ですよね。

当たり前ですが、誰も飲んだコーヒーの量など記録していません。

この数字はその国の商店で販売されたコーヒーの量から(税務署が?)割り出したものです。記事https://cafend.net/drink-coffee/

によれば、ルクセンブルグは周辺国に比べて消費税が安いので、近隣諸国の住民がコーヒー豆を買いに来るのだそうです。それを、Domestic Consumptionと勘定してしまったための珍統計だったらしいのです。

このことは、なかなか良い教訓と思います。

私は、GDPなど経済統計の値を疑っています。

“Voyage of the Beagle”(ビーグル号航海記)by C. Darwin 読了

11 10月

ガリレオを引用するまでもなく、科学にはどこか「冒険」の要素がある。それが最近では単なる仕事に化している気がする。

それではまずいということで、ダーウィンが進化論を世に問うはるか前の20代で行った冒険旅行の記録を読んでみる気になった。初々しい感性による美しい英語で書かれた探検記を極上の料理を食べるように味わった。 2018年7月23日から読み始めて、2019年10月12日の読み終わった。

南アメリカをほぼ一周し、タヒチ、ニュージランド、オーストリアを越えて、最後は喜望峰周りで5年経って帰国している。進化論の着想を得たのは、ガラパゴス諸島でのフィンチという小鳥のくちばしの長さが島ごとに違うことだったと、中学の時に教わったが、違うと思う。フォークランド諸島に生息する狼などの動物が人に馴れる度合いが島ごとに違うことに着目し、島に人間が定住した時期との関係を調べて、世代を重ねるごとに人間に安易に近づく性格のものが死に絶え警戒心の強いものが生き残ったと記している。これこそが、自然淘汰の本質と思う。博物学者の記録なのにスケッチが一つもないことが気になった。

「龍雄先生の冒険」でも、内山龍雄先生の人生最大の冒険は一般ゲージ原理 の主張だったと思う。今月末から、放送大学面接授業で「若きアインシュタインの考え方」を講じるが、そこでは26歳の時彼が発表した、特殊相対性理論の「冒険」を話すつもりだ。

<現在>という謎(勁草書房)に寄稿しました

20 9月

時間の空間化批判という副題が付いていて、哲学者の森田邦久さんが編集しています。哲学者と物理学者が時間について論じ、対話したものです。

私は、第3章 現代物理学における「いま」を執筆しました。これは、東京大学で行われた吉田夏彦先生の主宰するDDD会での講演、森田さんが企画した九州大学でのセミナーに基づくものです。

内容は、1947年に渡辺慧さんが書かれた「時」という本(河出書房)の中に収められた常識人と物理学者の間の「時間対話」を70年タイムスリップさせたものです。

現代物理学の数学的な記述の中から滑り落ちてしまった、「今」の概念の復権の芽を量子力学と熱力学の操作的な理論構成の中に見出そうとします。

この論文集の中の平井さんによるベルグソンの時間観と不思議な符丁があります。キーワードは「観測者」です。

以下をクリックしてくださると、校正の方が可愛いと言ってくださった手書きの「マクスウェルの悪魔ちゃん」です。図3.2 マクスウェルの悪魔

雑誌「現代思想」に佐藤文隆さんとの対談が掲載されました

27 7月

今年は、アインシュタイン生誕140年で、それを記念して特集号を企画したそうです。

佐藤さんも私も、学生時代アインシュタインは「過去の人」として扱われていました。時代は一巡りして、量子力学の観点からすると「時の人」かも知れません。

私は、対談でアインシュタインが、1905年の特殊相対性理論の時と1915年の一般相対性理論で、そのスタイルを大きく変えていることを強調したつもりです。そして、現代的な観点からすると、若きアインシュタインの優れた着眼点に注目すべきだと述べました。

 

“Heidegger and Science” by J.J. Kockelmans 読了

22 6月

ハイデッガーと父(1961年、自宅前)

父が生前、翻訳した「存在と時間」(M.ハイデッガー著)を読んで欲しいと電話してきた。始めの5ページを読んでさっぱり分からなかった。ただ、原著が1917年上梓で、N.ボーアがコモ湖畔で量子力学の講義を始めた時であることが気になった。

しかし、ハイデッガーが「科学から影響を受けたことはない」と断言したと何かの本で読んでがっかりしたので、父にその旨電話した。父は、その言葉を文字通りに受けてはいけない、と言った。お茶目な人でよく冗談を言う人だそうだ。

定年後、ハイデッガーの現代科学に対する見方に絞って、「存在と時間」を読んでいこうと思い、本を探して表題の本に出会った。その中で、ハイデッガーは近代科学の祖をガリレオとニュートンにとっている。近代科学と古代ギリシャの科学の違いは、実験のあるなしではなく、近代科学が自然を数学に「企投」(entwurf,project)したことにある、と述べている。具体例として、ニュートンの第一法則(慣性の法則)を挙げている。「企投」はハイデッガー語で、「熟慮の後での乾坤一擲」のことである。それは、科学ではなく哲学なのだと言いたいのかもしれない。裏を言えば、「科学は考えない」(Wissenshaft dinkt nicht)で計算だけしている、という挑発的な言い方にもなる。

量子力学については言及していないので、晩年親交のあったハイゼンベルグが書いたものから見ていこうと思う。

荒勝文策について読む

4 6月

日本の原子核物理学の草分けである荒勝文策について、京大でお弟子さん政池明先生が最近科学史的な本を出版された。

徹底した実証主義者の荒勝が、広島の原爆投下直後に放射線を調査し、それが原爆によるものであることを実証している。敗戦後、GHQによる尋問を受け何より大切な実験ノートを没収された時に流す涙と、その時の通訳T. SmithがGHQの理不尽なやり方に憤慨して辞表を出して帰国し、日本文化の研究者になるところは胸を打つ。そして、サイクロトロンの破壊と続く。

この誠実な物理学者の存在を知ることができて良かったと思う。

井上勝生著 シリーズ日本近代史(1) 幕末・維新

2 2月

P147

日本に国際的な重大な軍事的危機が迫っていたわけではないのである。対外的危機からの脱却が何をおいても必要だったという、国際関係を前提に急進的な政治革新を必然的なものと描き出す見解が従来有力なのだが、冷静に再考されるべきである。

 

P118

最強の海軍国イギリスは、日本周辺海域でのロシアとの勢力均衡。大陸国家中国への橋頭堡としての海洋国家日本の地勢的位置、日本の高いレベルの国家統合と3つの条約港防衛の困難さ、そして順調な貿易の推移などを配慮しており、これがイギリスによる日本の領土植民地化という現実的可能性を相当に小さくしていた。

 

この本には、1860年代の日本において重要な役割をした幕府、薩長、外国大使たちも「日本の植民地化が非現実的であること」の認識を共有していたことも書かれている。

幕末の「植民地化の危機」は、戦後も続いた日本の学校教育におけるフィクションだったのである。

P116

植民地化の危機について

1861年に起きたロシア軍艦対馬占領事件に際し、イギリス公使オールコックが「ロシア艦が対馬からの退去を拒む場合、英国自身、同島を占領すべき」と言明し、イギリスが「日本占領」を意図したとする、文部省維新資料編纂会編「維新史」の説明を

当時のイギリス東アジア艦隊司令官ホープの「日本の領土の占領は得策でない」という反論の記録によって否定している。

 

2017年度大阪大学入試出題ミス

16 1月

そのために一年遅れで20名ほどの入学を認めると大学側は発表した。大方のマスメディアは受験生の人生を狂わせたとして大学側の対応を批判している。もちろん、一年の遅れの発表の申しひらきはできないのだが、このままでは単なる大学叩きに終わる。出題ミスの再発防止の新しい組織を作ることが進歩とは思えない。

私が在職中に入試室長をした経験から言えば、人間が行うことである以上ミスは減らせるけれども完全になくすことはできない。ある確率でエラーは起きることを認めた上で、ひとつのミスが20名という人数の故なき不合格者を出すようなシステムの脆弱さをなくす対策を考えるべきであると思う。

議論を簡単にするために、全受験科目が1000点満点としよう。合格・不合格のボーダーライン前後5点の幅に20人いたとしよう。一問5点とし、出題ミスが1問あるとその20人の合格が動くことになる。しかし、考えてみてほしい。1000点のうちの5点という点数は、採点のわずかなさじ加減で動くいわば誤差の範囲なのだ。いわばその20人はエラーバーの中に埋もれているので、その合否を点数で区別することには意味がないのである。

私の提案は、そのボーダーラインのエラーバーに埋もれている人たちに対しては、単なる点数ではなく全く別の尺度を適用して、合格・不合格を判別することである。そうすれば、1問くらいのミスがあっても合格・不合格に影響が出ない。

「別の尺度」は色々ありうるので、それぞれの大学の見識で選択して、事前に公表する必要がある。例を挙げよう。(1)完答した大問の数の多い順にする。(2)ある特定の科目が秀でているものを優先する目的で、点数の合計ではなく、自乗和を採用する。(3)女性を優先する。他にもあるだろうが、その是非はここでの問題ではない。

この「別の尺度」をボーダーラインにだけ適用する方式は、上に述べたように合格設定の出題ミスに対する脆弱性を回避するばかりでなく、見所のある人を大学が見出す手段にもなる。

朝日ウェブ論座にあった、尾関章さんの記事「なにごとにも誤差がある――2018年、科学者にはそう言ってほしい」に応えたつもりである。

http://webronza.asahi.com/science/articles/2017122100006.html

 

 

 

 

 

Sapiens (サピエンス全史)を読了

7 10月

約7万年間に、東アフリカから出発したホモ・サピエンスの一部はヨーロッパで先住民のネアンデルタール人を征服した。この2つの人類の持つ身体的能力、作る道具の性能にさほどの差はないのに何故サピエンスが勝利したのか?

ハラリの仮説によれば、それは想像力であったという。目の前にあるものだけではなく、あるべきもの、あり得るものを考える力であった、というのだ。たとえば、サピエンスの遺跡からライオンの頭の人物像が出土している。想像力は、より多くの集団を

動員することを可能にする。典型例が宗教である。ネアンデルタール人たちがせいぜい10人単位で闘うのに対して、サピエンスは100あるいは1000人単位で作戦を持って戦える。

想像力の生み出したものは、宗教の他に国家、貨幣などがあり、農耕時代を経てそれが世界宗教、帝国、金融などに発展し、人類社会を拡大しつつ変貌させて行った。現代は、さらに科学や資本主義という武器を手にいれてそれらが地球規模になった。

しかし、環境への負荷など、この肥大化が個々の人間を幸福にしたか疑わしい。 たとえば、狩猟時代の食生活の内容は農耕時代よりも充実していたし、余暇もあった。ただ、農業はより多くの人口を養うことができたから、狩猟民族を数で圧倒できただけなのだ。後者が前者よりもよい生活を保証したわけではない。

人類史を「想像力」の観点から一気に見通した本である。

類人猿の研究で有名な松沢哲朗さんは、実験的研究から人間とチンパンジーの差は想像力にあると言う。人間の幼児は、人の顔の輪郭だけの絵を与えると目鼻を追加するが、チンパンジーはしない。人間には見えないけれども「あるべきもの」を考える力があるのだろう。

逆に、具体的な現実は少数の人たちの間にしか共有されず、拡大しにくいので、淘汰されて行く。戦争による死は明らかに現実であるがせいぜいその近親者と友人たちだけにそのおぞましさが共有されるだけで、時間の経過とともに消えて行く。一方、国家の独立や経済的利得の方が現実的とする逆立ちした幻想が多数を巻き込んで行く。戦争の現実感を持たない若い人たちが国家の安全保障をゲーム感覚で語り、それを「現実的」と思い込む様子を見聞きするにつけ、この本は人類の終末論ではないか、と思ってしまう。